それでも読書で反社会を思う

Living, Loving, Thinkingさんから言及いただいた。
「世界の敵」? - Living, Loving, Thinking, Again
言及頂いて嬉しくありがたく、恐れ多いくらいです。比べて私は完全に勉強不足なんで、精進致します。
的外れになっていたら申し訳ありませんが、ご返答を。

「人間」も「社会」も「世界」も「目前」のものだけではない。私は私が今まで全然会ったことのない、或いは私が今後も絶対に会うことがないであろう無数の「人間」が存在することを知っている。「社会」は「目前」の他者たちだけでなく、そのような私が会ったこともなく、また会う術もないような無数の他者たちによって構成されているということを知っている。

私もそれは理解している。「恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。」と読書を例えたが、メールは常に相手がいて成立するわけで、必ずその先は社会と接続されている(相手がオバマやジョブスだったら、恋人と話すよりもよっぽど社会的だったりするかもしれない)。
たとえ相手が死者であったとしても、いや今に名を残すような死者ならばそれは死者及び幾千幾万の兄弟弟子と群をなすことであり、現代にコミットするよりも高度に社会的な行為かもしれない。
しかし、それでも私は読書は反社会的行為であり、世界の敵になるための第一歩だと考える。

私にとって「世界」は三次元的ではなく四次元的な構造を持つものとして現れる。「世界」は〈現在〉のものだけでなく、(記憶や痕跡としての)〈過去〉や(予期や前兆としての)〈未来〉も組み込んだ仕方で存立している。換言すれば、「世界」には(「目前」かどうかを問わず)生きている人だけでなく、既に/未だ姿を現していない先祖や子孫も住んでいるのである。

世界が四次元的構造をとっているなら、それは無限に広がる四次元空間ではなく、過去を起点に未来に拡散するピラミッド型構造をとっているはずだ。ピラミッドは単なる時間軸だけではなく、物事の抽象度、上位概念、マイナ度、等で作られているはず。
ピラミッドの社会の中心と言えるレイヤは「本を読む暇があるなら野良仕事しろ」の少し上の新聞やテレビのあたりに位置している。読書という行為は、そのピラミッドの中心から遠ざかる行為のように思える。
例えば学問で言うならば、理系では数学>理学>工学、文系では文学>法学>経済学、の順番にの社会の中心から遠ざかり罪深いと言え、あらゆる学問の頂点に立ち最も罪深いのは哲学であると言える(もちろんそんなに単純なものではないけれども)。

基本的に読書はピラミッドの頂点へ向かう行為だ。

例えば、それまで資本主義経済を全く自然なものと感じていた人がマルクス主義の書物を偶々読む。それまで金正日将軍様の権威に全く疑いを抱かなかった北朝鮮青年が偶々〈韓流〉小説を読む。それは「目前」の資本主義体制とか朝鮮労働党体制にとっては「反社会的」ではあるが、同時に別の社会体制等へのイニシエーションでもある。

資本主義とマルクス主義は同じレイヤに属しているので、頂点に向かう行為とはちょっと違うかもしれないが、並列する社会を見てその上位概念を思うことは容易い。これは工学が理学の基礎研究によって発生しており、理学が数学の概念に裏付けられる関係にも似ている。
読書によってピラミッドの頂点に向かい、それを現実に応用させることでピラミッドの裾野を拡張させる。これは最初に引用したエントリに近い話だ。
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しかし、読書の先にある社会に耽溺すると、社会の中心と言える、現実社会のレイヤまでなかなか戻ってこれない。
昔教科書で「人間の限りある頭脳では数学の発展は止まるので、科学の発展は止まるであろう」といった文書を読んだが、現実にはまだ数学は発展しており、もはや科学の発展では到底追いつけない領域にまで到達しており、依然としてその差は開くばかりであるように思える(すみません、現代数学とか物理学とか詳しくないので単なる印象です)。その意味において、数学は社会の中心から離れてしまった学問なのだ。


社会をピラミッドの内部とすると、世界全体はその辺や頂点を含む。
社会の敵とは、そのピラミッドの辺や頂点に属する人間だ。過去の偉大な思想家や芸術家達は、皆その上を歩いていたはずで、その人の歩んだ跡がそのままピラミッドとなり社会の一部となる。
社会の敵は、その時代においては「危険」とされて「社会の敵」と認定されるが、後の時代の人々からすれば単なる過去の思想にすぎない。
社会の敵によってピラミッド状の社会は広がり、人間の定義は拡張される。

それでは、世界の敵とは?
ピラミッドの頂点を突き抜け、ピラミッドの外側に単なる点として存在する「突破者」。
人間の定義を拡張するどころか、人間の存在そのものを危うくしかねる「何か」。
いつかそんなふうになりたいと憧れる。

いや、「フィクションの中でも最も罪が重いのは」私小説だよ。

これについては、まったくもって仰られる通りです…。(観覧車で恋人と二人きりで私小説を書く男は世界の敵かも)