第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」に寄せて、私の意識に安らぎあれ

 僕達は、生きている人と話すように、死んだ人とも話すことができるんじゃないかと思うのです。生きている人と話しながら、実は話してないことは普通にあります。話しているふりをすることも、多くの人と話しながら実は誰とも話していないことも、珍しいことではありません。
 だから、死んだ人とたくさん話すことも珍しいことじゃないと思えるのです。
第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」ごあいさつ、より

sledoniさんが良いタイミングで第三舞台の千秋楽ライブビューを告知してくれていたので、見に行って来ました。えーと、あらすじはsledoniさんにお任せします。
あまり、芝居や第三舞台のことを知らないながらも私の感想を。
冒頭で挙げた「ごあいさつ」がロビーで入場券と一緒に配られた時から、ずっと伊藤計劃さんのことがずっと頭から離れられなかった。

「コンピューターの普及が、記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味を、もっと真剣に考えるべきだった。」GHOST IN THE SHELL 人形遣いより

落ち込んだ時や、心が落ち着かない夜は計劃さんのblogを読みに行く。そこには30歳から35歳までの計劃さんがいて、本当にしょうもないバカ話から、ガチンコ過ぎて鳥肌が立つ様な映画評論の話ができる。ちょうど、私が大学に入学してから卒業するまでの間blogを書いていてくれた(本当に暗く、友達も居なかった)。私は、一方的な一読者に過ぎないけど、計劃さんのことは師匠であり私のBIGBOSSだと思っている。
近い将来、私は計劃さんが日記をつけ始めた年齢を追い越してしまうし、計劃さんの享年を追い越すのもあっという間のことなんだと思う。それでも、30歳の彼は、35歳の病巣に体を喰い尽くされた彼は、その瞬間のまま、blogにあり続けている。
計劃さんのblogを読むのは時に辛い、あと何年か経てば私も覚悟完了した計劃さんのようになれるのかと思って。そして、余りにも自意識過剰で自分も他人も何もかもが許せなかった、計劃さんのblogだけが楽しみだった当時の自分のことを思って。


話が深呼吸する惑星の話から逸れました(一応これは単なる自分語ではなく前ふりで後で繋がるんですよ)。
芝居に出てくる記憶喪失の男,神崎が、記憶を失ってしまった理由としてこんなことを言っている(セリフうろ覚えなので意訳)。
 「この星に来て、(若いころ自分のせいで自殺した親友の)立花(の幻覚)が現れたんだ。あいつは何かをするわけでもなかったが、ある時ふと鏡に映る48歳の自分と21歳の立花を見た時、俺は何者にもなれない自分に気がついたんだ。」
この深呼吸する惑星は、半分は第三舞台の往年のファンに向けたような脚本になっている。そのファンには、おそらく舞台を演じる俳優や鴻上さん自身も含まれている。
私には、単なる鳥の着ぐるみや懐メロとしか認知できなくても、セリフや仕草の一つ一つに至るまで、ファンにとっては第三舞台の歴史を意味する特別なもののはずだ。
鴻上さんは、この脚本を書いた時、辛くなかったのだろうか?
昔の芝居のフィルムを見た時、恐くはなかったのだろうか?

フィルムには当時のままの役者たちがいて、永遠にその年齢のままそこに存在する。幻覚に「他人」の幻覚が現れて、「自分」の幻覚が現れないのは、演出上の都合というだけではなく、鴻上さんが脚本家で舞台には上がらないことに理由があるように思える。それは第三舞台の芝居を見てきたファンにも同じことが言える。
第三舞台の往年のファンたちは、昔のセリフや演出が引用される度に、何を感じたのだろうか?


私は最初それは絶望と諦めだと思った。
時が止まったフィルムを鏡に若いころの自分と今の自分を相対させたときに感じること、神崎が21歳の立花を鏡に21歳の自分と48歳の自分を見比べ、何者にもなれない自分に気がついてしまって、記憶を失ってしまったように。

絶望と諦めは、若いころの自分の「意識」から今の自分の「無意識」に向けられた殺意に他ならない。

親愛なる虚無様、
君が何も感じていないのは承知している。
君が何も意識していないのは承知している。
伊藤計劃 From the Nothing, With Loveより

初めて自転車に乗れたあの日、初めて好きな人と手を繋いだあの日、あの日の私の「意識」は既に死んでいて、今はもう何も感じない。
大人になって歳を重ねるのにつれて時間の感覚が早くなってくるのは、「意識」が死んで時間が抜け落ちているからだ、学年が進むに連れて辛い学校が楽になったと感じるのは、私の魂(=意識)が徐々に磨耗して死んでいったからだ。


芝居のの最後で、記憶を取り戻した神崎は、地球の立花の墓前で踊るため惑星アルテアを去ってゆく、そこに絶望や諦めはなかった。鴻上さんや役者さんや観客であるファンたちも、みんなとても楽しそうで、誰も絶望したり諦めたりはしていなかった。
第三舞台のことはよく分からないけど、昔の鴻上さんはきっと今よりもギラギラして尖っていたはずだ、「祖国なき独立戦争」という言葉に象徴されるように。そんな芝居を見に来てた往年のファンたちもギラギラして尖っていたに違いない。第三舞台とファンは家族のように絆で結ばれていて、愛し憎しみ合った仲間なんだと思う。
そんな彼らが今回の舞台を見て、ギラギラしていた過去の自分の「意識」を真っ向から受けて笑っていられるのは、今の自分が過去の自分に支えられて生きていることを、きっと自覚できているからと、冒頭で引用したごあいさつを読み返しながら思った。

 そして、死んだ人との会話が自分を支えていることに気づくのです。それは、教祖や偉人の言葉のように強烈な信仰を伴うものではなく、生きている人間の力強く生臭い言葉でもなく、じつに淡く、遠く、ささやかな言葉です。やがては、時間と共に消えて行く言葉かもしれません。会話しようと決心しないと現れない、かげろうのような言葉です。
 けれど、そんな、弱く、淡く、小さな言葉が自分を支えているのだと自覚すること、そして、自分を支えるものの弱さや、はかなさに気づくことは、なかなか素敵なことなんじゃないかと思うのです。
第三舞台封印解除&解散公演「深呼吸する惑星」ごあいさつ、より


私もいつか、鴻上さんや第三舞台のファンたちのように、昔の死んでしまった自分の存在を認めて、今の自分が過去の自分に支えられて生きているといった実感が持てるのだろうか?
最後に、伊藤計劃さんの言葉を借りての失われてしまった私の魂に弔いの言葉を伝えたい。

ありがとうございました。

あなたの物語は、今の私の一部を確実に成しています、と。

あなたの言葉は、今の私の一部を確実に縁取っています、と。

かつてあなたの言葉が真実だと思った時期もあり、いまはその頃と考え方も変わってしまったけれど、しかしあなたの用意した道を迂回してここにたどり着けたことはやたり、幸福だったんです、と。
伊藤計劃:第弐位相 野田さんの思いでより